論文とは、何が正しいかではなく、何を言いたいかである
誰もが持っている「自分なりの理屈」を丁寧に説明することが、論文である
論文とは、ロジックを積み上げていった結果、得られた答えを書くものかと思っていませんか?
「A」という事実がある
「B」という事実がある
「A」+「B」で「C」という事実がわかる
これがロジック。
しかし、この著者によれば、それが良い論文かというと、それは違うと。
自分の中に何か言いたいことがあって、その言いたいこと伝えるために、できるだけ丁寧に説明することだと。
つまり
自分は「C」と言うことを主張したい!
そのために、
「A」という根拠や
「B」という具体例を示す
これが、論文なんだということだそうです。
だからある意味「こじつけ因果関係」で当然なんだと。
なんだか論文を書くことに対するハードルが下がった気がしませんか?
絶対に間違いのない論を書くことは、現実的に不可能である
例えば、増税について論文を書こうと思ったら、
賛成でも反対でも、どっちの主張を支える根拠も出せる。
どっちにしたって、論理立てられるし、でもどっちを言ったって反論はできる。
必ず主張のどこかで論理の飛躍が出る。
しかし、論理の飛躍を恐れていたら、論文は書けない。
絶対に論理的に正しい文章とは、「石は石である」といった同語反復分以外にない。
本当に確実なことしか言えなくなってしまう。
それじゃ、つまらないし、意味がない
どんなに綿密でも、ただ調べただけのものは論文ではない。
誰にも批判されない論などあり得ない。
著者は、たまに、反論のしようがない文に出会うことがあるそうだが、そんなものはまったく面白くもないし、心に残らないそうだ。
誰もが自分の中に、自分の言いたいことを持っている。
それを伝えるために、言いたいことを色々な角度で説明したり、具体例をたくさん示す。
論理的かどうかを気にするより、丁寧に、わかりやすく、説得的に書くことに頭と時間を使おう!
著者のメッセージはこんな感じです。
なんだか、自分も論文を書いてみたくなるなる本でした。